扶養義務とは何でしょうか

 

みんなさん、こんにちわ。法学研究科のCMKと申します。今日の発表は、私一人だけです。ゆっくりします。それでは、始めさせていただきます。今日は、扶養義務とは何でしょうかについて、発表させていただきます。

 

一、法律上の定義 

法律って、難しいね。条文を丸暗記しないとね。と、初対面の人によく言われています。友達になってから、私の研究テーマを聞いて、「扶養義務~?」それは何?なぜ、わざわざこのテーマを研究するんですか?友達に聞かれたら、答えは急になくなってしまいました。…その後、考え直して、以下のように返事をしました。

今、またレジュメの一比一比、「自己責任原則」

1.自己責任原則その例外:はい、一言といえば、「現代民法における、自分の生活を自分の責任で、維持すべきことを原則としています、が、肉体的(肩を)・精神的(頭を)・社会的(皆を)いろいろな事情により、自分の資産と労力によって生活することが出来ない人も生じますね。この場合に、その人と一定の親族関係にある者が、必要な生活資料を与える、という制度が「扶養」です。そして、一定の親族関係にある者が義務付けられるのは、それが扶養義務です」。

2.扶養の要件:詳しく言えば、三つの条件があります。

(1)要扶養状態:権利者が自分の資産と労力によって生活することは出来ません。

(2)扶養可能状態:義務者には扶養の能力があります。

(3)一定の親族関係:権利者と義務者との間に、夫婦、親子、兄弟などの親族関係があります。

へぇ、これを聴いても、おそらく「さっぱりわからない、」ね、と反応した人、きっとここにもいますよね。そこで、今回の発表では、私の研究テーマを少しだけ説明させていただきます。

次は、二番目の「わかりやすい二分説」

 

二、わかりやすい二分説 

わかりやすく説明すれば、法学部の授業で必ず扶養義務の二分説を説明します。わかりやすく説明するために、すでに80年以上前の昭和3年に(1928年)、日本の法学者で現代家族法の父と呼ばれる中川善之助博士は、扶養義務の二分説を提出しました。偉いです!発表したとき、今の私と同じ歳です

1.二分説とは、扶養義務が二種類あることです。すなわち、扶養義務を分けて、生活保持義務と生活扶助義務の二種類にするということです。

(じゃ、きくわ。なんでものを説明するために、別のわけもわからないものを言う?)この生活保持義務って。はい、生活保持義務とは何でしょうか?それは、夫婦間・未成熟子に対する扶養義務です。配偶者、夫と妻、つまり、旦那さん、奥さんの間、お互いに扶養する義務があります。これが生活保持義務です。そして、お父さんとして、お母さんとして、自分の子供が未成熟子、また一人前ではない、三歳の子供、まだ働くことが出来ない子に対して、扶養をしなければならなりません。これも生活保持義務に属します。

2.中川博士は、以下のような比喩を通して生活保持義務を説明しました。

「最後の一片 ( いっぺん )の肉、一粒 ( ひとつぶ )の米までを分け食べらふべき義務である」ということです。これは世界大戦の前の日本語ですから、文語文もありますね。でも、見てわかる気がする。

あぁぁ、はい、もうすこし説明しましょう。不可以笑要悲苦。たとえば、吉野家 ( よしのや )松屋、すきやの牛丼さえ食べられないよ、この家は。えぇ、(泣きそう)これは最後だ。両手で。あなた、うちの最後のご飯です。一緒に食べましょう。橡皮擦當肉。えぇ、これ、最後の肉だ、お前さん、食べなぁ~)。

「最後の一片 ( いっぺん )の肉、一粒 ( ひとつぶ )の米までを分け食べることをすべき、義務があります」。これは、「生活保持の義務」の決まり文句としてよく言われます。相手の生活を保持するのは、自分の生活を保持するように、しなければならない。

3.さらに、中川博士は、文学的な例えを使って、「親子や夫婦は、この意味において、扶養するが故に、親子であり、夫婦でありうる。扶養をしない親、扶養をしない夫婦、というものは、(手勢 風吹 河流  ( ふ )かない ( かぜ )とか、 ( なが )れない ( かわ )とか、いうように、観念的矛盾 ( かんねんてきむじゅん )である」、というように説得力が強く解説をしました。

じゃ、わかった、夫婦だから、子供だから、普通の扶養義務じゃないね、わかるわかる。なんとなくわかる)(點頭)。

4.そして、生活扶助義務とは何でしょうか?なぜこの分類を?

川博士によれば、兄弟の間、成熟子、年取った親などに対して、扶養をするのは、生活扶助義務というものです。ちなみに、法学者が「年取った親」のことをよく「老親」って言います。これが生活保持義務の程度まで及ばない。要するに、(畫圖

(1)生活保持義務:樹の ( ね )は、支柱 ( しちゅう )があるかないか、どの場合でも常に働いていなければならなりません。これは、樹の根の役割です。

(2)生活扶助義務:根だけで、その樹を「保持」し得ないときには、樹の支柱は、この樹が倒れないようとするときにのみ、 ( はたら )かねばなりません。

(3)支柱の「扶助」を頼っても、根は「保持」の役目を ( す )ててはならないのです。ですから、このパターンが身分法に於ける「生活扶助の義務」と「生活保持の義務」の違いとは、全く同様にあてはまるのです

つまり、生活保持義務は樹の ( ね )です。生活保持の義務は、樹の支柱です。

 

三、都市伝説urban legend

さて、話題をすこしかわりにしましょう。(3番目の都市伝説urban legend

私の友達ジョー、ロサンゼルスに出張し、出張先のバーで、顔さえ知らない美人に誘われ、お酒をがんがん飲みました(喝酒)。気が付くと、ホテルの浴室 ( よくしつ )で、 ( こおり ) ( つ )まったバスタブに横たわっています背中 ( せなか )にホース[1]があります(摸摸背後 畫圖解明)。そして、目の前にメモがあります。そのメモに「911」に電話するように書いてあります。傍の携帯で電話して状況を ( つた )えると、救急隊員が「動かないで、すぐ来ます」といいます。そして、病院に連れられて、「残念ですが、あなたの ( じん )臓は無くなってしまったんですよ」と、言われます。

あぁ、これは私じゃなくて、私の友達の話ですね。ちなみに、「911」というのは、日本の「119」ですよ)。

人の腎臓が臓器売買集団に抜き取られた話、このようなばかばかしい都市伝説、皆さんの国にはありませんか。

一度だけ聴いたことがありましたら、忘れようにも忘れられません。「聞いたカイ。友人の友人の何々さんって、出張先で知らない人と酒を飲んで、目が覚めると、なんか、腎臓さぁ、取―らーれーてしまったんですよ!」と、来週にも再来週にも、このような話を繰り返して言えますよね。この話がわかりやすいし、覚えやすいからです。

 

四、批判

中川博士の二分説の発想も、まさにこのような非常に魅力のある比喩とは、同じです。ただの法律条文と比べたら、二分説を聞いて、簡単には忘れません。もちろん、事実の先行性に基づき、国民の感情、社会通念に訴えることなどがあります。しかし、私に言わせれば、この二分説が説得力の強い、一番の原因、まずは、前に言ったような文学的な例え(肉!ご飯!)を使ったため、ではないでしょうか。その結果、日本の家族法学において通説になった、のみならず、今日の台湾の民法学(私は台湾人ですから)においても定説となっているのです。

それにもかかわらず、都市伝説こそ正しいだ、とは思わない。同じように、覚えやすい話、説得力のある例えが正しい、とは言えない。ということは、言うまでもありません。

そのため、二分説に対しての、批判が出てくるのは当然のことです。

1.解釈論の批判:まずは、1960年代以降、鈴木禄弥(すずき ろくや)教授をはじめとして一連の批判学説が次提出されていました。これが条文の再検討せざるを得ない解釈論の話です。戦後の日本家族法の修正とつながっている。私にとって面白いですが、皆さんにとって条文の解説がつまらないから、ここで省略させていただきます。

2.法制史の評価簡単に言うと、二分説が妻と未成熟子の扶養を優先する、すぱらしい解釈論ではありました。すなわち、『家』制度をかわりに、核家族(図!!)を中心にしよう扶養法の理論です。しかし、いまさら、解消すべき家制度も無く、日本民法も昔とは違うから、わざわざ扶養義務二分説を引用する必要は無い、私はそう考えています。

3.社会保障の批判:次は、社会保障の観点から提出された議論です。これが一番大事なのかもしれません。それは、日本の憲法第25条「健康で文化的な最低限度の生活を ( いとな )む権利」という生存権保障を強調する規定があります。そうすると、「最後の一片の肉、一粒の米までを分け食べるべき義務」が、個人にとって生存権侵害に関する要求のことです。確かに、最後の飯まで分けて一緒に食べるのは偉いかもしれません。しかしながら、扶養の必要を満足できる以上、残ったのは道徳義務に過ぎません(図!)。法律上の義務になってはなりません。しかも、個人にとって扶養の能力がないと、政府の出番だといってもよかろう。

4.「老親」扶養がどこに行くべきか

二分説によると、扶養義務がわざと二種類に分けています。核家族を擁護するせいで、「老親」に対する扶養が生活保持義務にならないから、老親の生活を扶助することだけです。これが東洋のひとにとって、おかしいです。欧米の方にぜひうかがいたいと思っています。日本、台湾、中国、韓国の家族なら、よく定年退職した親と一緒に暮らしますね。(たとえば、(図!!)こんな話ありえますか。家族でわいわい~今日はひさしぶりの牛肉のすき焼きです。でも、私たち夫婦と子供3人分だけ。お父さんはお茶漬け。)まるで現代版の姥捨 ( うばす ) ( やま )伝説。高齢社会、さらに超高齢社会にとって、老親の介護が深刻な問題になるのも事実です。

そもそも、重要なのは、権利者の身分や関係の違いではなく、一緒に暮らしている事実ではないでしょうか。たとえば、先の例を20歳過ぎる弟にしましょうか。普通に言えば、大人になって自分の力で稼ぐことができますが、弟が交通事故で仕事できません。もし私が彼を扶養したら、しかも一緒に生活する形で、この場合、わざと生活扶助と生活保持を区別する意味はどこにありますか。

 

五、結語

そして、この二分説以後、批判説を受けていたいろいろな修正説が提出され、二分説を代わりに日本の多数派になりました。

そこでは、疑問があります。戦前明治民法を適用していたとき、発表されたが、二分説が通説になったのは戦後のときです。通説になる前に、家族法が改正しましたが、通説になってから、この部分の民法の条文はもう一度変わっていないのに、日本の主流はどうして二分説から修正説になりましたか。

それは時代の流れのせいですか。社会状況、経済環境などの条件が変わっているためですか。それとも、民法学について研究方法が変わっていたから、なのか。私は、このテーマについて研究し続ける価値があると思っています。とくに、違う市民社会における台湾民法では日本と同じく結論がありうるでしょうか、今後の研究テーマと思っております。

 

以上、発表を終わりました。

ご静聴ありがとうございます。

ご意見、ご質問などございましたら、よろしくお願いしいたします。

 



[1] ゴム・ビニールなどで作った、液体や気体などを送るための管です。

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