今天的文語文講讀課 上的是福澤諭吉的文章
明治29年5月「福翁百話」二十九
成年に達すれば独立すべし
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)
父母の恩は山より高く海より深し。
終身忘るべからざることは勿論のことなれども、
既に至当の教育を被り[1]て成年に達するときは、独立の生計を営むべし。
即ち父母の膝下を辞するの時にして、これより後は一切父母の厄介たるを許さず。
既にその厄介たらずとあれば、仮令い[2]父母の尊厳無上なりというも、
老師很歡迎問問題
我發現 這剛好又跟我的研究主題正相關 所以就特別踴躍的發問
(嘻嘻 那幾個中國人今天都翹課 老師的目光都放在我身上)
除了辭彙的問題 我也特別問了這個成年的概念
這個至當之教育 是適當的概念 當時應該是小學教育
老師覺得當時應該是指十五六歲就成年 因為武士還有元服的概念
問題二 膝下を辞するの時 在動詞後面有の才接名詞
為何 成年に達するとき 卻沒有 下面的 指図し意の如くするは 也沒放の
老師是說以前動詞的連體形就帶有體言的感覺在裡面
沒有放是因為涉及和文的リズム 有放是因為漢文 而且有強調之意
されば、父母のその子に命令し指図し意の如くするは、
これに衣食を与えて養育する間のことにして、その後は専ら情愛を以て交わるのみ。
例えば、病気の時に看護は無論、あるいは不時の災難あれば、
財物を愛しまずして相互い[5]に救うこともあるべし。
固より特色の間柄[6]なりとはいえども、
元来人の子は第二世の人にして、第二世には自ずから第二世の生活法あり。
いわんや時勢の変遷は存外に速やかにして、
故老の生活法を再びすべからざるの事情多きにおいてをや。
間柄 和 続柄(つづきがら)是兩個很相似的詞
用來表現彼此的關係 例如在間柄欄填上 “指導教授”
続柄 主要用在役所的文書 特別是與 親類之關係
いわんや ……をや 日文解釋是 まして~の場合外、言うまでもない
這是用來表現 “更別提” “更不用說”
いわんや 也可以寫成 況んや
特にその第二世の男女が既に結婚すれば、即ち新たに家を起こしたるものにして、
新家[7]の夫婦が家の利害のために運動するとあれば、今は父母の喙[8]を容るべき限りにあらず。
往くを咎め[9]ず、去るを悲しまず、
自由自在に任してその働きのあらん限りを逞し[10]うせしむべきのみ。
斯くありてこそ社会の進歩も期すべきことなれ。
老師問我們 夫婦是要”運動”什麼 ? (何を運動する)
然後露出詭異的笑容
(看到和我老媽年紀一樣大的歐巴桑用優雅的日文開這種黃色笑話真的是第一次……)
答案當然是很正經八百 成立新家庭 當然為了家庭工作 努力(動く)
くちばしをいる 現在多寫成 “喙を入れる”
就是插嘴的意思 文雅地說就是 置喙
家族団欒楽しというといえども、家を分かちて二となせば、
その団欒の楽しみもまた二処に分かるべし。
新家の新団欒は、旧家の旧団欒を辞して、新生活の辛苦を慰むるに足るべし。
万里故郷を離れて海外に業を営み、又は未開の地に移住するが如き、
畢竟、新家の夫婦子女団欒の快楽あればなり、故老の干渉を許さざる所なり。
ただしその第二世の人がなお未熟にして独立の実を得ず、
ややもすれば老父母の差図を要し、またその保護を被らんとするの事情あるか、
または親子の智愚強弱大いに相違する等の場合なきにあらず。
これは例外として、例外の処置あるべきものなり。
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